スカトロ小説

1話 密室の便意

エクソダスゴールド

 

 

「堀内くん。作成してくれた資料、ミスがあったわよ」

 

 会社のデスクで仕事をしていた俺に声をかけてきたのは、社内一の美人と言われる純香すみか先輩だ。

 

「は、はいっ」

 

 慌てて立ち上がりながら振り向くと、思いのほか近くに顔があった。雪のような白肌と完璧な造形をした瞳が、瞬時に目に入る。

 

「わっ」

 

 俺は驚いてのけぞったが、純香先輩は嫌な顔ひとつしない。むしろ、その真っ白な歯をのぞかせてにこりと笑った。

 

「訂正しておいたわ」

 

 彼女はそう伝えると印刷した資料を俺に渡し、きびすを返した。

 

 ブラウンが入った艶やかな髪から、ふわりと柑橘系の香りが漂う。

 

 俺は無意識のうちに鼻の穴を広げて、彼女の残り香を胸いっぱいに吸い込んでいた。

 

 グレープフルーツやライムのような香りは、横文字でシトラスというのだろうか。ほのかにミントの清涼感もある。なんて素敵な香りだろう……。

 

 ……おっといけない。

 

 我に返って資料に目を通すと、かわいらしいピンクの付箋に訂正内容が書き付けてあった。その文字は、一目で先輩を連想するくらい美しい。

 

 美人で、仕事もできて、それなのに嫌味なところが少しもない。会社は殺伐とした戦地のような場所だが、先輩のデスクの周りだけはいつでも光り輝いている。

 

 

 

 ある朝の通勤中、先輩の後ろ姿を見つけた俺は、どきっと心臓が跳ねるのを感じた。

 

 内勤の社員にスーツ着用義務がないわが社では、女子社員の多くが私服で働いている。純香先輩もそのひとりだ。

 

 彼女の洗練された着こなしが、俺の目には可憐な白い花のように映る。

 

 パステルグリーンのブラウスは七分丈で、袖がひらひらと風にはためいている。そのブラウスをインした白いフレアスカートは、彼女の歩調に合わせて、花びらのようにふわりふわりと広がった。

 

 前を行く彼女の姿に目を奪われながらも、ふと疑問が浮かんだ。いつも早くに出勤している彼女が、なぜ俺と同じ時間に歩いているのだろう。

 

 その疑問を口にする機会が、偶然にも訪れる。

 

 俺が会社に入ると、エレベーターを待っている彼女に追いついたのだ。

 

「おはようございます」

 

 俺が声をかけると、純香先輩が完璧ともいえるモーションで振り向いた。

 

「おはよう、堀内くん」

 

 彼女の笑顔には、今日も一点のくすみもない。

 

「今日は珍しく遅いですね。どうしたんですか?」

 

「ああ、それはね――」

 

 エレベーターが到着し、ふたりで乗り込む。なんと、純香先輩と密室でふたりきりになってしまった。

 

 扉が閉まる。

 

 殺風景な鉄の箱に、シトラスの香りが広がった。

 

「ちょっと寝坊しちゃったの」

 

「へえ、意外だなあ。先輩でもそんなことがあるんですね」

 

「わたしだって人間よ。それくらい誰にだって――」

 

 その言葉を遮るように、ガタン、と嫌な音を立ててエレベーターが急停止した。

 

「きゃっ」

 

 揺れでよろめいた先輩が短く悲鳴を上げる。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 とっさに肩を支えた。俺の腕をかすめた髪から、シトラスミントの香りがする。明るくて爽やかな、純香先輩のイメージをそのまま表したみたいな香りだ。初めてこんなに近くでかいだ。

 

「ありがとう。それで、今のは何?」

 

 エレベーターの回数表示は止まったまま、扉が開く気配はない。

 

「もしかして、閉じ込められたんでしょうか……?」

 

「そうみたいね。とにかく、外部と連絡を取らないと」

 

 こんな時でも純香先輩は落ち着いた様子で、エレベーターの非常用ボタンを押した。

 

 少しノイズが入った後、スピーカーから男性の声が聞こえた。

 

 おろおろするばかりの俺に代わって、先輩が的確に情報を伝える。

 

 いくつかのやり取りを経て、管理会社の人がすぐに復旧に来てくれることになった。

 

「よかったですね、大丈夫そうで」

 

「そうね……」

 

 だけど、うなずく純香先輩の表情が心なしか曇っている。

 

「どうかしましたか?」

 

「なんでもないの」

 

 彼女にしては珍しく、そっけない返答だった。

 

 まあ、エレベーターに閉じ込められて明るい気分でいられる人などいないだろう。そう思って気にしないことにした。

 

 それから特に会話もなく、時間が過ぎた。

 

 俺はエレベーターの奥にある鏡で身だしなみをチェックする振りをしながら、さりげなく純香先輩を盗み見た。

 

 鏡ごしの彼女は、やはり何か思いつめているようで……。

 

 と、静かな空間に突然ぐぎゅるうるる、と腹の音が響き渡った。

 

 あまりに汚い音だったから、最初は俺のお腹が鳴ったのかと思った。しかし、お腹を押さえてみても、音を立てたような感覚はない。

 

 まさかと思って純香先輩を見ると、彼女は身を縮めるようにお腹を抱え、俺から顔を背けていた。

 

「あ……。あ、大丈夫ですか?」

 

「ごめんなさい……」

 

「っ、全然、謝ることじゃないですよ。もしかして、寝坊したせいで朝ご飯抜きですか? わかりますよ。俺もよくやります」

 

 あえて冗談っぽく言ってみたつもりだったが、先輩はくすりとも笑わなかった。

 

「ねえ、どれくらいで開くと思う?」

 

「どうでしょうね。トラブルの程度にもよるけど、1、2時間くらいなんじゃないですか?」

 

「そんなに待てない!」

 

 切迫した叫び声。驚いて先輩の顔を見ると、いつもは健康的な白色をした肌が、今日は少し青ざめているように思える。

 

 俺は腹の音の原因が空腹なんかじゃないことを察した。

 

「朝からお腹の調子が悪かったの。それで、遅くなって……。薬を買う時間もなかったの」

 

 先輩はうるんだ目で、すがるように俺を見る。

 

 その期待に応えられないのが悲しくて、俺は先輩から目をそらした。

 

「俺も薬とかは持ち歩いてないです。すみません……」

 

 俺がうつむくのと同時に、再び腸を絞り上げるような音が響いた。

 

「うっ」

 

 先輩がつらそうにお腹を抱えてしゃがみ込んだ。

 

「あの、座っててください。その方が楽だと思います」

 

「うん、ありがとう……」

 

「俺、腹痛にきくツボとか調べてみますね」

 

 そう言って携帯を取り出し、あえて先輩に背を向けた。

 

 ぐううるるる

 

 ぎゅるうううう

 

 ごおおぉぉぉ

 

 それらが何の音なのか、できるだけ考えないようにした。

 

 刻一刻と時間は過ぎるが、エレベーターはうんともすんとも言わない。

 

 俺が調べたツボも所詮は気休めで、腹痛をこらえる先輩の顔に脂汗が浮かびはじめた。

 

「あの、あとどれくらいかかるか管理センター人に聞いてみますね」

 

 さっき先輩が押した非常ボタンをもう一度押す。

 

「はい、管理センターです。ご迷惑をおかけしています。どうされましたか?」

 

「復旧にはどれくらいかかるか、わかりますか?」

 

「申し訳ありません。ただいま原因を調査中でして、あと2、3時間はいただければと思います」

 

「な……」

 

 腹痛に襲われているときの時間間隔を思うと、言葉も出ない。

 

 ぎゅるるるるっ

 

 先輩のお腹の音は、先ほどより激しさを増している気がする。

 

 美しい横顔に浮かぶ苦悶を見て、俺は心を決めた。

 

「純香先輩っ!」

 

 清水の舞台から飛び降りるかのような思いで彼女の名を呼ぶ。本当にそれほどの覚悟が必要だったのだ。先輩に突き付ける現実が、あまりにも残酷すぎたから。

 

「その状態から3時間なんて無理です。我慢しすぎて服を汚してしまうよりは、いっそ出してしまった方がいいのではないでしょうかっ!」

 

 一思いに言い切った。

 

 空間に広がるシトラスミントの香りが、まるで皮肉のように俺たちを嘲笑っている。

 

 純香先輩は何も答えられなかった。しかし、伏せられた瞳からは、諦めたように一滴の涙が零れ落ちた。

 

 

 

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※動画はイメージです。小説の登場人物とは一切関係ありません。